手紙のように書く

書きたいのに書けない。
読みたいのに読めない。
そういう日々が続いていた。

書けない理由は、自分が書いたものが自分で読んで面白くなく、
行き詰まりと虚しさを感じだから。
また、読まれたいという願望と、こんなものを読まれたら恥ずかしいという羞恥心との葛藤。
閲覧数が思うように伸びないという失望も、もちろんあった。

読めない理由は、よくわからない。病気のせいかもしれない。
もっとも、病気でも読めていた時期もあったわけだが……焦りであろうか。

無理する必要はないではないか、
義務や仕事のわけでなし、
できるときにだけやればいいではないかという考えもあるだろう。
しかし、できない状況の一方で
たくさん書きたい、沢山読みたいという気持ちだけはひたすらに募り、
頭がパンクしそうになっているのだ。
欲求は高まっている、だが、発散できない。
なかなかにつらいことである。

二兎を追う者は一兎をも得ず。読むのほうはいったん棚上げするとして、まず書くほう。
どうすればいいのか。何なら書けるのか。思い悩んだ。

まず、「こんなつまらないものを読まれたら恥ずかしい」という
羞恥心への対策を講じることにした
これは比較的簡単。別の名前で別のブログをつくることにした。
こうすれば、私を知る人、いや、ほぼだれもが読むことのない場ができる。
書きたいけど読まれたくない現状における隠れ家である。

ブログタイトルは「教会のマッケンジー」とした。
マッケンジーとは、ビートルズの「エリナー・リグビー」に登場する、
誰にも顧みられることのない神父の名である。
ひとりぼっちで語り続ける場として、なかなかいいタイトルだと思っている。

さぁ、場はできた。

しかし、書くことが思いつかない。書きたい欲求はあるのに。

どうするか。

ヒントは突然降りてきた。

寺社で神仏に感謝を奉納するように、
教会で神に祈るように、内なる神と対話するするように書こう。
それこそ「教会のマッケンジー」の名にふさわしい。

これが思いついたら、あとは楽だった。
憑き物が落ちたように、胸が楽になった。

そしていま、私はこの、一本目の記事を書き上げた。

おそらく、誰にも読まれることのない記事である。
だが、それはそれでいいのだ。読まれたければ、もうひとつのブログに書けばいい。
ただ、もしかしたら、メッセージボトルのように偶然誰かが目にするかもしれない。
それならそれで、かまわない。
嬉しいかもしれないし、そうでもないかもしれない。
それは先の話である。いまはどちらでもいいのである。